シャングリ=ラ


  
 コスモタイガーが、一機。

 密林に、火を噴きながら、丈高い木々にぶつかり、それをへし折りながら落ちてくる。

 パイロットは生きていた。炎上する機を少し離れて眺めていた。腕を伝い落ちる血を気にも留めずに、もう一方の手で引き剥ぐようにヘルメットを外す。顔に付 いた血を拭い、白い光に目を向けると、緑の森の向こうに抜きんでた、尖った頂きがあった。万年雪を抱き、熱気をふりはらって光っていた。
 歩きだす彼を、なんとかして止めたかった。もう二度と逢えまいと思ったのだ。

 僕は叫ぼうとした。声が出ないので、懸命に手を伸ばした。触れることはできなかったが、彼――山本さんは振り返り、唇をほころばせた。その微かな笑顔を見たとき、僕は、彼とは違う世界にいることを思い知らされた。


 山本さんは、月では怖い先輩だった。あまり口をきいてくれないし、僕らが(つまらない)ミスをすると、あのきつい眼でちらりと、しかもしっかりと睨む。しかし僕は、何となく山本さんが好きだった。だからヤマトにもついていった。おまえマゾだろうなどと、はっきり言う奴もいたが、山本さんは月にいるときよりは、よく表情を変えたし、僕に冗談を言ったりもした。ただ、相変わらず他人を煙に巻いた。僕が怪我をしてあまり動けなかったときのことだ。ベッドの縁に腰を掛けたまま、不意に問いかけてきた。

「シャングリ=ラって知ってる?」

 聞いたことがなかった。

「シャングリ…ラ?」

「Si,シャングリ=ラ」

 山本さんは微笑した。

「理想郷の一つ」

 ああ、そうなのか。しかし一体何です、と尋ねようとしたら、それまでは黙っていた加藤隊長が、突然に険しい顔になって、山本さんの頭を小突いた。

「よせよ」

 冗談めかそうとした口調とは裏腹に、隊長の表情はひどく暗かった。

「バカじゃないの、おまえ。こいつうるさいから連れて帰るな。じゃ、しっかり養生しろよ、またな」

 隊長が山本さんと一緒に出て行ってしまうと、僕は理想郷について一人で思いを巡らすしかなかった。いや、別に何だっていいのだ。ただ、山本さんの最後のラがひどく曖昧で甘く、音楽的だったことを繰り返し、考えていた。もっとも彼のラはいつも少し甘い。そしてちょっと国籍不明だ。人をこんなにも感傷的にする。


 現代人が理想郷を望むとしたら、それは一体何だろう。重々しく疲れきった時間の中で、人はかつて心があったことを忘れている。理性よ、眠るなら眠れ。僕は変わるまい。そう考えても僕は、少しも悲しくなかった。

 現在と、輝かしい未来は存在するはずだった。しかしそれは、僕たちのものではない。…遠い遠い昔、音楽家たちは競って教会に音楽を寄進した。宗教心のためだけではない、自らの安楽を得るためでもあったのだ。自分のために祈って、救いを求める。僕はそれを聞いたとき、心が溶けていくような安堵感に満たされた。僕はその時代を夢見た。

 B.T隊の良いところは、こんな風に、いつまでも感傷的な気持ちを残したままでいさせてくれることだ。中央は既にきりきりとしていた。あの時も、二人が立ち去った後で隣のベッドの男が、「あの人たちはインテリだから」と、不快気に言っていたのを、僕は忘れることができない。呑気なことだ、という心持ちが言外にあった。…僕らは加藤隊長の陰に隠れていたのだ。加藤さんは、思考を飲み込むように無口になっていった。それでも僕たちを庇ってくれていた。加藤さんに甘えていた。


 山本さんは不思議だ。厳しいのか優しいのか分からない。現実的なのか夢想家なのか、それも分からない。そのうちに、すうっと空気に溶けてしまうのではないかと不安になる。

「どうしてシャングリ=ラなんですか?」僕は尋ねた。

 山本さんは、謎めいた笑みを微かに浮かべている。そして、

「桃源郷だとジジイが碁でも打っていそうだろ?」と、なんだか罰の当たりそうなことを言った。嘘つき。今度はさもおかしそうに笑われた。

「言葉が、綺麗」

 それだけ?

 再び謎の微笑。やっぱり嘘だ。

「何だろうね、一体」珍しく気弱な言い方をした。


「もう何もしたくない。時間も音も、煩わしいものはいらない」


 中央アジアのような砂漠(もしかしたら、廃墟になってしまった僕の故郷かもしれない)
 馬を連れた美少年が首だけ少し動かして振り向いた。
 頭や身体をすっぽりと覆った白布や、鈍色の装身具が激しく風になぶられている。
 薄い唇がなにか呟く。砂色の瞳がゆっくりと瞬く。
 音は全く聞こえない。
 涼しげな目元が山本さんに似ていた。


 僕は事典をひく。シャングリ=ラを調べるためだ。チベットにあるラマ教の寺院、ちょっと意外な気がした。


 山本さんが死んだとき、僕は幻を見ていた。死の夢を見、当然のようにそれを待ち望んでいる僕も、もうすぐ死ぬ。



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