シャングリ=ラ
山本さんは、月では怖い先輩だった。あまり口をきいてくれないし、僕らが(つまらない)ミスをすると、あのきつい眼でちらりと、しかもしっかりと睨む。しかし僕は、何となく山本さんが好きだった。だからヤマトにもついていった。おまえマゾだろうなどと、はっきり言う奴もいたが、山本さんは月にいるときよりは、よく表情を変えたし、僕に冗談を言ったりもした。ただ、相変わらず他人を煙に巻いた。僕が怪我をしてあまり動けなかったときのことだ。ベッドの縁に腰を掛けたまま、不意に問いかけてきた。 「シャングリ=ラって知ってる?」 聞いたことがなかった。 「シャングリ…ラ?」 「Si,シャングリ=ラ」 山本さんは微笑した。 「理想郷の一つ」 ああ、そうなのか。しかし一体何です、と尋ねようとしたら、それまでは黙っていた加藤隊長が、突然に険しい顔になって、山本さんの頭を小突いた。 「よせよ」 冗談めかそうとした口調とは裏腹に、隊長の表情はひどく暗かった。 「バカじゃないの、おまえ。こいつうるさいから連れて帰るな。じゃ、しっかり養生しろよ、またな」 隊長が山本さんと一緒に出て行ってしまうと、僕は理想郷について一人で思いを巡らすしかなかった。いや、別に何だっていいのだ。ただ、山本さんの最後のラがひどく曖昧で甘く、音楽的だったことを繰り返し、考えていた。もっとも彼のラはいつも少し甘い。そしてちょっと国籍不明だ。人をこんなにも感傷的にする。 現代人が理想郷を望むとしたら、それは一体何だろう。重々しく疲れきった時間の中で、人はかつて心があったことを忘れている。理性よ、眠るなら眠れ。僕は変わるまい。そう考えても僕は、少しも悲しくなかった。 現在と、輝かしい未来は存在するはずだった。しかしそれは、僕たちのものではない。…遠い遠い昔、音楽家たちは競って教会に音楽を寄進した。宗教心のためだけではない、自らの安楽を得るためでもあったのだ。自分のために祈って、救いを求める。僕はそれを聞いたとき、心が溶けていくような安堵感に満たされた。僕はその時代を夢見た。 B.T隊の良いところは、こんな風に、いつまでも感傷的な気持ちを残したままでいさせてくれることだ。中央は既にきりきりとしていた。あの時も、二人が立ち去った後で隣のベッドの男が、「あの人たちはインテリだから」と、不快気に言っていたのを、僕は忘れることができない。呑気なことだ、という心持ちが言外にあった。…僕らは加藤隊長の陰に隠れていたのだ。加藤さんは、思考を飲み込むように無口になっていった。それでも僕たちを庇ってくれていた。加藤さんに甘えていた。 山本さんは不思議だ。厳しいのか優しいのか分からない。現実的なのか夢想家なのか、それも分からない。そのうちに、すうっと空気に溶けてしまうのではないかと不安になる。 「どうしてシャングリ=ラなんですか?」僕は尋ねた。 山本さんは、謎めいた笑みを微かに浮かべている。そして、 「桃源郷だとジジイが碁でも打っていそうだろ?」と、なんだか罰の当たりそうなことを言った。嘘つき。今度はさもおかしそうに笑われた。 「言葉が、綺麗」 それだけ? 再び謎の微笑。やっぱり嘘だ。 「何だろうね、一体」珍しく気弱な言い方をした。 「もう何もしたくない。時間も音も、煩わしいものはいらない」
僕は事典をひく。シャングリ=ラを調べるためだ。チベットにあるラマ教の寺院、ちょっと意外な気がした。 山本さんが死んだとき、僕は幻を見ていた。死の夢を見、当然のようにそれを待ち望んでいる僕も、もうすぐ死ぬ。 Pierrot Lunaire トップへ |
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