闇の夜に召集がかけられた。
蝋燭が一本灯っただけの薄ぐらい小屋の中を、お雪はぐるりと見回した。
「今夜はいい話が聞けそうかしら。それほど手間をかけるような仕事じゃあない筈なんだけど」
「言い訳のようだが、お雪さん、あの野郎なかなか用心深いんですよ。ふだんから肌身離さず持ち歩いているに違えねえ」
義次が答えた。
「それをなんとかするために、あたしらが動いてるんじゃないの。いいかい、娘が二人、首をくくってるんですよ。そんな泣き言をいっていると、お前さんのところに化けて出ますよ」
「手はあるんですよ。ただちょっと憚るんだが…」
義次は、少し照れたような、困ったような表情を浮かべた。
「なんですね、勿体付けて。構やしない、言ってご覧な」
「じゃあ言いますがね。奴は、毎晩のように岡場所に入り浸ってますのさ。それも、髭の意休もそこ退けに嫌われてるってえのに、ろくでもねえ嫌な遊び方をしてるらしい」
「嫌な遊び方?」
「しごきで縛り上げられたり、長煙管でひっぱたかれたり、責められるのが大好きなんだそうで。女がみんな気味悪がってましたよ」
「まあ、嫌だ!!」
お雪はさすがに若い娘らしく、潔癖そうな顔を思い切りしかめた。
珍しいことだ、と思わず薄く笑ったあの字をお雪は早速目に留め、真顔になり、
「そうだ…あの字、ちょいと化けて、その見世に入り込んでおくれ。そして、証文を奪い取って美濃屋を始末する。お前さんならできるだろう?」
そら恐ろしいことを言いだした。さすがにあの字もあきれ、
「女郎に、ですかい?」
と、問い返した。
「義さんの『手』っていうのは、そういうことじゃあないの? 遊び女なら近付けるってことなんだろう?」
「だったら義公に化けさせりゃあいいじゃありませんか」
「義さんはこう見えても、上背がありすぎるんですよ。いくらなんでも、こんなに大きな女はいやしないやね。大丈夫、お前さん素がいいからなんとかなるよ」
お雪は平然と言ってのけ、あの字はむっとなった。これをとりなすつもりか、面白がっているだけなのか、重三郎がしたり顔で口を挿んだ。
「おお、ついでだから蕩し込んで、存分に責めてきねえな」
「冗談じゃあねえ!」
目を怒らしたあの字は、刀を掴んで立ち上がった。
「誰か他の者をあたってくれ。俺は帰らしてもらう」
「あの字お前逃げるのかい!」
ずばっと斬るようなお雪の声がとんだ。
「お前の腕を見込んで言ってるんだ。手段を選ばず確実に殺るのがお前の流儀だろう!」
きっとなって振り返ったあの字の袖を、重三郎がひっつかんだ。
「これさ、気の短え。まあ、座れ、座れ」
「逃げると言われちゃあ気に入らねえ」
あの字はお雪を鋭く見据えた。
「殺るだけは殺りましょうよ。ただ…今度っからはもう少し手段を選ばせてもらうとしよう」
遊所は日が暮れてからが喧しい。客を引く女の嬌声、上擦った三味線の響きが漏れ聞こえてくる。
ひっそりと戸のそばの陰見世に座っていたあの字は、ふと、美濃屋という声を聞きとがめて顔をあげ、そっと立って様子を窺い見た。主人が挨拶をしている。しきりと頭を下げて、上客なのだろう。客は、白くねっとりとふくれたような、中年の商人風。義次が、土左ヱ門のような野郎だと言っていた。目が細く、表情がよく読めない。下男らしい若い男を連れている。用心棒かもしれない。美濃屋は細い目を光らせて見世の中を眺め回した。そして、戸の陰に立ったあの字を目ざとく見付け、にっこりと笑った。
「おや、新顔だね。なかなか美形じゃないか。ご主人、気に入りましたよ。あの妓にいたしますよ」
とんでもないことになったというべきか、願ってもないというべきか…。
「冷やっこくて愛想のないところがよい」
ねばっこい取り澄ました喋り方、この目付き、いけ好かない野郎だ。べらぼうめ、そんなに冷やっこいのがいいんなら冷水か心太でも口説いてやがれ。探すものを探して、早いとこ冥途に送ってしまおう。あの字がそんなことを考えていると、遣手婆に背を叩かれた。
「これ、お姫さん、もっと愛敬がいい顔をしなよ」
さてどうしよう。美濃屋は、
「わたしは不調法でね、酒を飲むと、なにかこう、胸苦しくなるんだよ」と言って、ほんの形ばかり杯に口を付け、あとは菓子や肴を食い、こちらの顔を眺めては、にたにたと嬉しそうに笑っている。
それを見ると、もともと言いたくもない甘言も、さらに言いたくなくなり、持て余したあの字は、窓際に座り直し、立て膝のままそっぽを向いて煙草をのみ始めた。愛想がないのがいいッてんだから、構うものか。男はいそいそと寄ってきて、着物の裾をつまんで、そおっと引く。あの字は邪険に裾をひったくる。また引く。引っ張り返す。
「いやにつんけんした妓だねえ」
呆れたように言うが、むしろ嬉しそうなのである。
「名前は何というのだね?」
おずおずと白い芋虫のような指を伸ばして、やっぱり人の裾を折ってみたり、伸ばしてみたり、丸めてみたり、いじくっている。もう放っておくことにした。
「歳はいくつかい」
気弱なような、押しつけがましいような声で、さらに尋ねてきた。
「なにか言ってくれてもいいじゃあないか」
哀願するように言い募った。そのくせ図々しい細い目がねちっこく光っている。さらにずいと膝を進めてきて、足に触ろうとした。
急いで足を引っ込め、思わず煙管で、美濃屋の面をしたたかにひっぱたいた。さすがにあの字もあっと思ったが、その時の男の、なんともうっとりと嬉しそうだったこと。こんな薄ッ気味の悪い男は、とっとと殺ってしまおうと思う。しかし証文を探さなければならない。なかなか機会がない。いっそ適当に叩いて喜ばせて、もっと油断させたほうがいいのか。
結局、傍に寄ろうとする男をはねつけはねつけしているうちに、夜が明けた。
朝になり、それでも座敷を出るところまで送っていくと、美濃屋は、
「お前のような女は初めてだよ。きっと今夜も来るからね」
そう言って手を取り、自分の両手で挟んで伏し拝み、たわけたことに顔を近付けようとするから、ぴしゃりとひっぱたいた。男は、おお、痛い、などと言いながら、至極嬉しそうに帰っていった。
「だいぶ気に入られたようだねえ」
隣の座敷の女が、しどけない寝乱れ頭で出てきて声をかけた。顔に疲労が浮き上がって、それが少し荒んで、老けて見える。
「お前新入りだろう。…やるじゃないか」
面白そうにあの字を見た。
「冗談じゃない。傍へなんか寄らせやしない」
女はぷっと吹き出した。
「おかげで一睡もできませんでしたよ」
「婆あには黙っていな。うるさいからね」
意外に親切そうに、女は笑いながら目くばせした。
「ああいう手合いは、金だけ搾り取ってやりゃあいいんだ。だいぶ悪いこともしてるらしいしさ。嫌な野郎だよ。連れてる三下も嫌な奴でさ」
女は、白粉がまだらに剥げた顔をふと歪めた。が、すぐに笑みを浮かべてみせ、
「まだ早いから、一寝入りするといいや。もたないよ」と、言った。
総体にこの女はかなり親切で、なにやかやと世話を焼いてくれた。
美濃屋平左衛門は夜を待ちかね、文字通りいそいそと見世を訪れた。
身ぐるみひきはがすようなあくどい商売をしていながら、尻尾を掴ませず、薄気味悪い恐ろしい男と言われている美濃屋だが、こんな岡場所の遊女の前でだけ、別人のように卑屈になってみせる。金さえ出せば拒むはずのない、いわば喰い詰め者の遊女たちに、あえて嫌がられ、蔑まれるのがたまらない…。
前夜は手酷い拒絶のされ方が、かえって気に入った。遊女らしい愛想も言わぬ、笑いすらせぬ。取り付く島のない、不思議な女だ。こんな女に、草履で踏みつけられたら…熱い煙管の雁首を押しつけられたら…考えただけでぞくぞくする。女はきっと、顔色ひとつかえないだろう。それもいい。犬になれといわれたら、犬になろう。
「さあ、今夜こそお前としっぽりと…」
助平心を隠しもせずにべたべたしようとする手を、女は振り払った。抱きつこうとすると席を立つ。そのまま冷ややかに美濃屋を見下ろしている。ふと片頬に冷たい笑みを浮かべた。
美濃屋はそれを見ると、かーッと頭に血が上り、泣き笑いのような顔になってかきくどいた。
「後生だからこっちに来ておくれ、何でもお前の言うとおりにしようよ。欲しいものがあったら買ってやろう」
しかし敵娼はまたしても、まるで取るに足らないものでも見るような目を向けただけだった。
女は運ばれてきた膳の近くに座り、酒をちょっと注いで即座に干した。清純なのか、大変な莫連女なのかまるで分からない。這いつくばって隣に座った男を見ようともしない。畳の上についた手を握ろうと、美濃屋がそろそろと手をのばすと、つと身を退き、杯を差し出した。 酒は飲めないのに、この遊女のよく光る強い眼に頭の芯が痺れ、杯を受け取った。もう夢中だから味など分からない、さらに杯を重ねた。すとんと気が遠くなった。
美濃屋が目を覚ましてみると、敵娼は立って外を眺めていた。月がそれほど傾いていないから、眠っていたのはそう長くなかったのかもしれない。
飲めぬ酒を口にしたせいか頭が重かったが、自分の身体に夜具が掛けてあるのに気付くと有頂天になった。夜具をはねのけ、飛び起きる。女が振り返ってちらりと見る。相変わらず素っ気ない一瞥なのだが、待っていたかのように、女は歩き出した。座敷を出ていこうとする。男は慌てて追いかける。廊下に出た。
廊下の右側には小さな庭をしつらえてあり、何本かの木が植えられ、ごく小さいながら滝や池もある。女はその近くへ下りていった。美濃屋も足袋のまま小走りについて行く。
きらりと何か光るものが落ちた。女が簪を落としたのだ。屈みこんで拾おうとするから、飛び付いて後ろから抱き締めようとした。その時、女が握った簪が、男の眉間に深々と突き刺さっていた。
美濃屋はそのまま一声も上げずに絶命した。
あの字は簪を抜き取ると、死骸をそこに置いたまま廊下に戻った。美濃屋の若い衆の声を探し、そっと座敷を窺った。あの親切な女郎と酒を飲んでいる。あけすけなことを言いつつ、女の太腿に手をのばしているのを、外から目顔で合図すると、
「ちょっと待っておくんねえな」
まんざらでもない顔で出てきた。
「あの、旦那様が」
「なに、旦那がどうしたとな」
気楽に言うのを外に誘い出し、匕首でぐっさりと心の臓を刺し貫いた。
一方女は、客が呼ばれたのを不振に思い、庭に出たらしいと勘をつけて、下駄を履いて下りてきた。そこで、倒れ伏した客と、返り血を浴びた新入りを見付けて息をのんだが、あの字は大胆にも女に凄絶な笑顔を向け、
「お前さんは何も見なかったね」と、尋ねた。
「あい……」
かすれた声で女が答えると、さらににっと笑ってみせ、
「世話になった」
と言うなり身を翻して、あっという間に姿を消した。
客が二人変死したわけだが、女郎屋には、口入れをした筋から香具師の元締が介入し、死骸を引き取ると同時に、口外しないよう脅しが入った。
「事があったと聞いちゃあ、お上は黙っていねえぜ。みいんな取り潰しだ。ここで、今までのように商売したかったら、知らぬ顔をしていることだ」
元締に逆らっても、商売は成り難かった。主人は、何があっても知らぬ存ぜぬで通すことにした。
「面白え事を耳にしたよ」
様子を探りに行っていた重三郎が、にやにやしながら言い出した。
「二日間だけ、滅法好い女が見世に出ていたそうだが、それッきり居なくなっちまった。雪女郎にはまだ早えし、狐か化物だったんじゃねえか、とよ。物好きがあの辺をうろうろしてやがったぜ」
「違えねえや。うまく化けおおせたもんだ。尻尾も出さずによ」
義次が江戸っ子らしくまぜっ返すと、あの字は嫌な顔をした。
「馬鹿言え。二度と御免だ」
「いい修業をさしてもらったと思いねえ。ところで、その三下の敵娼だった女、大丈夫なんだろうな」
「ああ、あれは、頼まれ人の朋輩さ。友達があいつに殺された、あんな奴死んじまえばいい、って言っていたし、美濃屋の紙入の中に、あの女の証文も入っていた。ちっとは胸が下りただろうよ」
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