闇 烏  (一)



 国元を出てから6ヵ月が経っていた。

 急に冷え込んで、冬に戻ったかのような日が続いたため、古代進之介(大笑)はどうも、風邪を引いてしまったらしい。体力には自信があったので、おして歩き回ったのが、よくなかった。悪寒がしてたまらないので、今日は引き揚げようと思いつつ、汁粉屋で体を温めた。ようやく目指す仇の居所を突き止めたというのに、これでは甲斐もない。

 汁粉代を置いて立ち上がったとき、店の娘と目が合つた。すらりとした身体つきで、やや寂しげな面差しの美しい娘だ。微笑んで軽く会釈をしてよこしたが、ふと憂い顔になり、魚のようにしなやかな身のこなしで近付いてきた。

「もし、お顔の色がお悪うございますよ。よろしければ、風の来ないところでお休みなさっては」

 かばそい手で支えられるように、奥に通された。娘の好意に甘え、炬燵にあたっているうちに、さらに熱がでてきたらしく、どうにも動けなくなってしまった。

 亭主は、ほんの気持ちだけの髷をちょこんと頭にのっけた、五十がらみの陽気な小男であった。旅装の進之介に、身体がよくなるまでゆっくり休んでいきなされ、と、すぐに二階の一間に床をのべてくれた。

 若さもあって、二日間暖かくして寝ているうちに、熱も下がり、大分楽になってきた。娘の名はお雪といい、卵を落とした粥をこしらえて持ってきてくれ、

「まあ、大分お加減がよくなってきたようでございますね」

と、笑った。

「おかげさまにて、もうすっかり軽快いたしました」

「まだご無理はいけませんよ」

 ちょっとお侠なところもあって、いい娘だ。が、進之介はそうそうゆっくりとはしていられないのであった。粥を食べ終わると、姿勢を正した。

「こたびはご厄介をおかけ申して、誠にかたじけない。そろそろお暇を…。ご亭主はどちらへ?」

「下におりますが…。まだお体が本当じゃあないのだし……そんなに大事の御用がおありなんですか?」

 お雪は困ったような顔をして、進之介を見つめた。

「人を探しておりまする」

 立ち上がると少しふらふらとした。

 亭主は階下で、今日も寒い、寒いと言いながら、火鉢の上に手をかざし、擦り合わせていた。進之介の顔を見ると、にこやかに、

「おや、どうなさいました」

と、声をかけてきた。

「お寒うございますなあ。こんな日にゃあ早いとこ熱いのを飲りたいもので」

「おじさん。進之介様がお帰りになるとおっしゃるんです。お止めしてくださいな。まだこんなに寒いんだもの、病み上がりの方が出ていったら、また具合が悪くなってしまいます」

 お雪は亭主の袖を引いて訴えかけた。

「いや、もう大丈夫でござる。お世話になり、お礼の中し上げようもござりませぬ。誠に恐縮なれどせめてこれでも」

 進之介は両手をついて礼を言い、幾許かの金を包んで差し出した、お雪は慌ててそれを押し留めようとすする。

「進之介様、お手をお上げになってくださいまし」

「とんでもないことでございますよ。こんなことをなすっちゃ困ります」

 亭主も小さな目を剥いて頑固に言い放ち、どうしても受け取ろうとしない。進之介は困惑した。一度出したものを引っ込めるわけにもいかないし、このまま睨み合って時間を潰すわけにもいかない。

 お雪は、しゅんしゅんと沸き返っている火鉢の上の鉄瓶を下ろし、茶をいれ始めた。

「差し出がましいようですが、何か理由ありとお見受けいたしますよ。仇でもお探しのようだ」

 突然に亭主が言った。とぼけた顔をしているが、その眼力は鋭く、進之介は頷かざるをえなかった。

「いかにも」

「相手の居所は、もう突き止めなすったのかね?」

 細く白い手が茶呑茶碗を差し出して勧めた。

「はい。とある道場に世話になっておるようで、取り巻きのような剣士風の男どもを引き連れ、歩いておりました。いい気になって肩をそびやかして……。届け出は済ませておりますゆえ、後は討ち果たすだけでござる」

 話しているうちに興奮し、上気してきた進之介の顔を見て、亭主は首を振った。

「今のお前様は、ちょっと頭に血が上っていなさるようだ。無理もない、まだお若いのだし。だがね、急いちゃあいけませんよ」

「……」

「倒せる相手も倒せなくなっちまいます」

 言葉に、そこはかとなく凄味が加わった。

 どうにも不思議な親父で、進之介は生返事をしてうなだれるしかない。

「こう見えましてもね、若い頃にはいろいろ悪さもいたしましたよ。何かお役に立ててることもあるやもしれません。ま、今夜はゆっくり酒でも飲みましょうや」

 人のよい親父に戻って、亭主は破顔した。

 その夜。快気祝いだという亭主に付き合っているうちに、進之介は大分よい加減になってしまった。もともとそう強いほうではない。いつのまにか、身の上話などを始めてしまっていた。と言っても、藩中のごたごたで父が殺され、兄も途中で事件に巻き込まれて死んだ、といった程度だったが…。

「母もそのために心労で亡くなりましたゆえ、一刻も早く無念を晴らしたいと思います。しかし…」

 進之介は言いさして口ごもった。

「お国元に帰りたくない、とおっしゃる…?」

 お雪が低い声で言葉をついだ。進之介ははっとなった。

「拙者は」

「多いのでございますよ、仇討ちなんてのっぴきならない状況に追い込まれて、居場所がなくなっているんでしょう」

「お雪どの」

 不思議に暗い口調に気付いた進之介が、娘の顔を眺めると、うすく微笑んでみせた。もともとやや寂しげな顔立ちなので、お雪が何を考えているのかは、分からない。

「それで、仇の隠れている道場は、いったいどこなんでございますか?」

 お雪は空いた徳利を盆に納めながら尋ねた。その様子があまりにも気軽だったので、進之介はつい、

「神田川をもうすこし上ったところに、お稲荷様がござりまするな、ごこから七、八町というところでござろうか」

と、答えていた。

 お雪はふと手を止めた。

「ご存じ、とな?」

「ええ、わりと近くですもの」

「お知り合いか?」

「いいえ」

 にっこりと笑った。立ち上がって奥に行き、少ししてから新しいのをつけて戻ってきた。亭主はすでに、腕を枕に横になり、軽い鼾を立てている。

「おじさんったら、風邪を引きますよ」

 肩に手をかけて揺さぶったが、亭主は軽くうなって身体の向きを変えただけだった。進之介とお雪は顔を見合わせて苦笑した。

「進之介様。さっきのお話だけれど、少しはお役に立てそうですよ。聞き込みの上手な知り合いがおりましてね、すぐに調べがつくはずです。あなた様はあまりお出にならない方がよいでしょう。近うございますから。しばらくここにいてくださいますか?」

「それではお雪どのに迷惑が」

「いいんです。その方が都合がよいのです」

 お雪はきっぱりと言い放ち、徳利を手に取り、勧めた。

「さ…もう少しいかがですか」


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