闇 烏 (三) |
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うすく曇って、生暖かい風が吹く晩だった。 月はまだ出ていない。いずれにせよ、欠けきって、明け方近くにならないと昇らない月だ。しかし、春の宵らしく、ぼうっと薄明るい。進之介は一人で外に出た。後のことは考えないことにした。 一軒のそば屋の前を通り過ぎたとき、ちょうど、体格の良い、総髪の剣客風の男が出てきた。進之介と目が合い、男は穏やかに笑んで頭を軽く下げてみせた。 それから数間も歩いていなかっただろう。声を掛けられた。 「進之介さん」 知り合いは居ない筈だが、と、振り返ると先程の総髪の男だった。 「ご不審はごもっとも」 男は実に爽やかに笑ってみせた。目も鼻も口も大振りで、着ているものも悪くない。こざっぱりとして颯爽と見える。
「お雪さんに頼まれましてね、ことを見届けるようにと。なに、あなたのお邪魔はいたしませんよ、ご安心ください」 進之介は、ありがたい、と思うより先にむっとなった。 今まで一人で旅をし、一人で敵討ちを念じてきたのだ。突然、見ず知らずの男に立ち合うと言われるよりは、手助け無用、そう答えたかった。 それが顔に出たらしい、男は笑って言った。 「私は何もいたしませんよ」 義次とやらといい、酔狂に過ぎる。江戸の人はみなこうなんだろうか。まず、お雪がそうだ。 「あの人はずいふん顔が広いようでござるな」 「評判の小町娘だし、なかなかの女傑ですよ」 男は気軽に言うが、進之介はまた少し面白くない。 「貴殿は?」 「申し遅れました、私は加藤重三郎(!)と申します。しがない浪人です」 この男、かなり遣える。手合わせたら勝てない、と進之介は思った。さばけた感じで、人は悪くなさそうだが。小唄なぞ口ずさんで、気楽なものだ。 小料理屋を通り過ぎると、あとは店を開いているところもなく、暗闇が急に身に迫ってきた。 「今の料理屋に、まだいるらしい。向こうの塀の切れたところで待ちましょう」 左手に長い板塀が続いていた。それが切れたと思うと、突然雑木林になった。道は、塀に沿って曲がっている。道場の近くに雑木林がある、と義次も言っていた。 林の闇に身を潜めて、暫し待った。かすかに酔声が聞こえてくる。 「来ましたな。五人」 重三郎がささやいた。進之介は頷き、大刀を握り締めた。 「進之介さんは仇だけを追ってください。雑魚のことは考えないように」 提灯の明かりが、五人を浮かび上がらせている。右から二番目が奴。あとの四人は浪人風だ。血が昂ぶってくる。しかし、頭は冷たく冴えていた。 進之介は道に躍り出て、刀を抜き払い 大声で呼ばわった。 酔漢どもに、さっと緊張が走った。 男は憎々しげに顔を歪め、後じさって刀の柄に手をかけた。 重三郎がのっそりと出てきて、 「用があるのは一人だけだ。命が惜しけりゃ関わらねえ方がいいぜ」 と、伝法に言ってのけた。 「どうします、とんだ命知らずが出てきましたぜ」 「構わん、斬って捨てろ。小僧、返り討ちにしてくれる」 提灯を捨て、一斉に抜刀した。 「やはり、言って聞くような野郎じゃあねえか」 鯉口を切ったかと思うと、重三郎はいきなり一人を抜き打ちに斬った。鮮やかな手並みに、四人に動揺が走った。 「進之介さん、こっちは適当に料理しておくから、存分に仇を取ってくださいよ」 「何を小癪な。貴様こそ今のうちに念仏でも唱えておくのだな」 浪人三人が、男を庇うように中に包み込み、じりじりと間合いを詰めてくる。 不意に、黒い風のようなものがぱっと吹きすさび、男の右側にいた浪人が、獣のような唸り声をあげて倒れた。喉首から、夥しい血が流れている。 何が起こったのか分からなかった。 「ぐずぐずしていやがるじゃねえか」 若い男の声がした。が、姿は見えない。浪人たちは不安気に目を動かした。 男は、塀を背にして、じわじわと退きはじめた。 「そっちは任せましたよ」 重三郎の声が言った。 男としても、正体の分からない敵よりも、進之介の方が倒しやすいと思ったのだろう、そのままさらに後退した。 進之介は気合い声を発し、切り付けていった。刃と刃が喰い合い、火花が散った。さらに何合か切り結んだ。思ったより太刀筋が鈍い。動きも鈍い。酒の匂いが微かにする。かなり酔っているらしい。 やれる、と確信した。 何太刀目かが、男の肩先に食い込んだ。たまらずがっくり膝をついたところを、一気に止めをさした。 「やりましたね」 重三郎が声をかけた。残りの一人を片付けてきたと見える。 やった、そう思った途端に全身から力が抜けた。すべてが夢のようで、進之介は、目の前に長々と横たわっている男を、不思議なものでも見るように眺めた。 その進之介の肩を叩き、重三郎は笑った。 「しっかりして下さいよ」 その重三郎の後ろに、もう少し小柄なのが立っているのを、進之介は見た。 「ああ、こいつは、あの料理屋に張らせておいたんですよ」 暗くてよくは分からないが、髪を無造作に束ね、うすく頬笑んでいる顔が、夜目にも整って、いい男だ。しかし、ちょっと得体の知れない感じ。 「おいあの字、てめえはもういいぜ。俺は進之介さんのお供をして、これからちょと忙しいからな」 「言われなくったって、もう用はねえよ」 うそぶいたのを聞いて、さっきの声の主だと気付いた。 「貴殿はさっきの…」 「早いとこ、始末を付けたかったからね」 にっと笑った。中々やさしい顔だちなのに、切れ長の目が鋭い。 「それじゃあ」 背を向けて立ち去ろうとするのへ重三郎が、 「おう、返し忘れていた。落とし物だぜ」 小柄のようなものをびゅっと投げつけた。あの字は振り返って、それを受けとめる。 「でめえでもねえ、とんだへまをしやがったな。見付けられたらことだぜ」 「おきゃあがれ」 憎まれ口を叩きながら、それでもあの字は身軽に塀を躍り越えていった。 進之介は呆気に取られている。 「どうもおかしな野郎で」 重三郎は快活に笑ったが、それ以上のことは言わない。 「やはり、お雪どのの知り合いでござるか?」 「ええ、まあそんなところです」 |
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