闇 烏  (五)



 翌日。進之介は傷心のまま、さりとて去りがたく、外に出てぶらぶらと徘徊した。たしかに花の蕾もかなり膨らんで、近々にはほころぶだろう。が、今は花を見たいとは思わなかった。

 梅はまだ咲いていた。

 その神社の境内には、縁台を置いた水茶屋が出ていて、客に甘酒や団子を出していた。

「進之介さん」

 知り合いはいない筈なのに、またしても親しく呼び掛けられた。見ると、重三郎が縁台で団子を食っていた。隣には、義次もいる。

「ここの団子はなかなかいけますよ。おひとついかがですか」

 そういえば、羊羹を教えてくれたのも、重三郎だった。この男、どうやら甘党らしい。

「いや、結構」

 それでも、縁台に並んで腰をおろした。茶をもらって飲んだ。

「元気がありませんね。ま、大事をし遂げた後ってえのはえてしてこうですがね。こう、ぱあっと景気よく花でも咲いてりゃあいいんだが」

 義次の口調がもう、景気がよい。

「じゃあ、何かうまいものを食いにいきましょう。気のおけないところを知っていますからね」

「まさか、また甘いものではございますまいな?」

 進之介が言うと、義次が吹き出した。

「そう甘いものばかり食っているわけでもないんですがねえ」

 重三郎は首を傾げながら、残りの団子を一気に口に放り込み、片付けてしまった。

「さ、行きましょうか。今頃は子持ち鯊や細魚が旨いですよ」

 三人は連れ立って歩きだした。

 道すがら、義次と重三郎は、花はどこがいいの、最近評判の何とかいう芝居が泣かせるの、などと、まことに長閑な会話を交わしつつ、時折進之介にも同意を求める。重三郎の態度はいたってくだけたものだ。それに義次の軽口が加わるので、進之介はなんと反応してよいか分からない。一人で武ばった受け答えをするのもそぐわないので、いきおい口数が少なくなってくる。

 花よりも芝居よりも、進之介が知りたいのはお雪のことと、この二人のことだった。いや…あの字とかいうのがもう一人いた。この連中、腕が立つことは間違いない。どういう知り合いなのか。

 義次が振り向いて笑った。呼びかけられたのに、気付かなかったらしい。慌てて返事をした。

「純なお人ですねえ。いずれ擦れっからして、こんなんになっちまうんかねえ」

 顎でぐいと重三郎を指し示した。

「義さん。そいつは聞こえねえぜ」

「はいはい、粋なお人でございますよ、重さんは」

 少し歩いて、たしかに気取らない間口の、しかしなかなか小呈な料理屋の中に、三人は入っていった。

「上に行かせてもらうぜ」

 重三郎が声をかけて、階段を上がっていく。気安い態度で、来つけている感じがうかがえる。もっとも、この男は誰に対しても、そうなのかもしれない。

 小座敷の障子を開け放つと、驚くような展望が現れた。下が鍋底のような谷になっていて、実に見晴らしがよい。こんもりした、まだうす青い林や、切れ切れに光る大きな川の眺め、切れ目もなく続く町屋の固まり。

 こうして見ると、江戸は坂や谷の多い、不思議な大集落なのだった。

「まあまあ、旦那、ようお越しくださいました」

 すっきりとした棒縞の、地味な拵えながらもどことなく婀娜な年増が、丁寧に手をついて頭を下げた。いくぶん抜いた衣紋の、首筋の滑らかな白さが際立っていた。

「お久しゅうございます。まあ、お変わりもなく、お元気そうで何よりでございます。今日は、よいまて貝が入っておりますよ」

「じゃあ、それを貰おうか。後は任せるから、このお方に、何かおつなものを」

「かしこまりました」

 進之介に笑いかけ、丁寧に頭を下げて、女は出ていった。ややあって、小女が酒と、まて貝のあえものを運んできた。

「ささ、一献」

「かたじけない」

「何だかあんまり嬉しそうじゃありませんねえ」

 義次が余計なことを言った。

「義さんはどうもお節介でいけねえな。いいんですよ、これからが大事なんですよ」

 重三郎の言葉に、進之介は塩辛い顔になって、口に含んだ酒を飲み下した。

 仇を討ったからとて、そうそう簡単に戻れるわけでもないのだ。幸い、国を出てからあまり経ってはいないが、派閥やら何やらで、居心地はよくなかった。親族も、煽るだけ煽って、後は冷たいものだ。それに、帰っても一人。身辺整理は済ませてきた。

「加藤殿は、ずっと、その…気ままな暮らしをしておられるのでございまするか?」

「ご覧のとおりですよ」

 しかし身形も悪くないし、おっとりとして卑しいところがない。何をして食っているのだろうと、ふと進之介は思った。そんな進之介の疑問に気付いたように、

「まあ……たまに呼んでくれるところもあるから、剣術指南に出掛けたりしますが、大概窮屈でねえ」

「こう見えても、なかなかいい腕をしていなさるのさ。お召抱えの話を断るってえから、勿体ねえようだ。おかしなお人さね」

「なに、気楽なほうがいいに決まっている。よく言うじゃあねえか、寝るほど楽な世の中に、起きて働く馬鹿もいる、とさ」

「進之介さんが笑っていなさるぜ。いけ無精なことは言わねえがいい」

「鵜呑みにしちゃあいけませんぜ、今のはものの例えって奴だ」

 さっきまでは気鬱だったが、慣れてくるとなかなか聞いて愉しい江戸ことばなのだった。歯切れがよくて、闊達な感じがする。何よりも、『起きて働く…』が可笑しかった。

 運ばれてきた料理もみな旨かった。三人とも、すっかり愉快な心持ちになっていた。

「ちょっと失礼」

 重三郎はつと立ち上がって、開け放したままの窓に腰掛けた。

「眺めがいいから好きなんですよ、ここは」

「それだけかねえ」

 またしても義次が茶々を入れた。その時進之介は、今まで気になってきたことを、尋ねる気になった。

「大分ご昵懇のように見受けられるが、一体どういうお知り合いで…?」

「うーん……言ってみりゃあ、汁粉屋友達ってところですかねえ」

「汁粉屋友達……」

「看板娘のお雪ちゃんの器量がいいし、結構繁盛してるんですよ。この御仁は食い道楽だしね」

「それじゃ、あの字とやらも?」

 暗闇で見たあの字の容貌と、汁粉はどうも結びつきそうになかった。それを言ったら、重三郎が汁粉を食う姿もなかなか奇妙なものかもしれないが……。

「おや,あの字をご存知で?」

 義次はちらっと重三郎を見た。

「あれは、どっちかってえば、重さんの知り合いさね。あっしはよくは知らねえんで」

 言葉の端に、反感が聞こえた。

「そりゃあ、おめえさんのように、何でもかんでもべらべら喋る質じゃあねえからな。人は悪くねえんだが…」

「あれ以上悪くなってたまるもんかい、上出来でござんすよ」

 義次は鼻を嗚らした。

「大方、やり込められたから、根に持ってんだろう」

「さようさ。あんまり得体が知れねえから、いっぺん、後をつけたんだ。はっと気が付くと、いねえじゃありませんか。そしたら後ろっから『おい義公』なんて言いやがる。『俺はこれから、妓のところに帰るんだが、おめえ付いてくんのかい? せいぜい、振られねえようにしなよ』だとよ、言うことがいけ洒落臭えわな、とんちきめ。自慢じゃあねえが、あっしぁ、親にも師匠にも義公なんて呼ばれたことはねえんだよッ」

 まさに紙に火が付いたようにまくしたてる義次に、進之介は呆気にとられたまま、それを見守っていた。

「あははは、そらあ、おめえも野暮なんだか、間抜けなんだか。つけててばれちまってるなんざ、同情する気も起きやしねえ」

「ただね、後ろっから声かけられた時にゃあ、本当に殺られると思いましたぜ。冷汗が出た。おっかねえこッさ」

 汁粉よりは納得がいく話だが、かえって興味をそそられる。重三郎も、この度はにやにや笑っているばかりで、乗ってこない。進之介は少しうずうずした。

「あの字、というのは、何の略でこざるか?」

「進之介さん、けっこう、噂好きでござんすね? へへ。……言わねえんですよ、あの野郎。『あの字とでも呼んでおくんな』って、それっきりさ。こう、重さん、どういうこっですかい?」

「いいじゃあねえか。あの字と呼んだら一分取られるわけでもなし。俺も知らねえよ。残念だったなあ」

 面白がってでもいるように、重三郎は答える。

「おめえは『義公』だからいけねえが、進之介さんが聞いたら教えてくれるかも知れねえなあ」

 「ちぇっ。そうでござんしょうよ、まだ命は惜しゅうござんすからねえ」

 義次は徳利を振って中身を確かめると、手酌で注いで、きゅっと干した。

 細身の、それこそ役者のような優男に見えたあの字だったが、確かに何か、ぴりりと殺気立ったところがあった。

「ぶすっとやられねえでも、一服盛られちゃたまらねえやな」

「コレ義さん、口が過ぎるぜ。進之介さんが本気にしなすったらどうするえ」

「あいや、それほど単純ではござらぬゆえ」

 たまに子供扱いされているのを感じた進之介は、きっちりと座り直して、威儀を正して反論した。

「こりゃあ失礼、どうもからかいたくなるんですよ。悪く思わんでください」

 重三郎は、爽やかに白い歯を見せて笑った。

「初手から気に入ってましたがね。もうしばらくいらっしゃるなら、今度はひとつ、芸者でも揚げて遊びませんか」

「すると拙者も、汁粉屋友達に入れてくださると?」

「はははは、そういうことになりますかねえ」

「進之介さん、大分くだけてきやしたね」

 また、からかわれた。悪い気はしないが。


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