闇 烏  (六)



 進之介はさらに、汁粉屋に逗留することになった。江戸見物をしていけという、亭主の熱心な勧めによるのだが、あれ以来、お雪とは話をしにくくなって、少々気まずい。お雪は進之介と目が合うと、幾分哀しげに微笑み、目を伏せる。進之介はもう、何も言えなくなってしまう。

 江戸見物とはいっても、今のところ特に見ておきたい所もない。観音さまに仇討ち成就のお礼詣りをすれば、もう当てはなかった。

 芸者遊びは、お雪の『悪い所へお連れしないでくださいね』との一言で、見送りになった。重三郎は、悪所じゃあないんだがな、とぼやいたらしいが、その代わりに、知り合いの若い道場主を紹介してくれた。門弟もあまり居らず、のんびりとしているので、気軽に行って構わない、体をほぐすにはいいだろう。進之介は、ようやくのびのびと体を動かすことができた。

 朝飯の後にそこへ出かけ、昼頃になって汁粉屋へ戻った時に、江戸家老の使いの者が訪れた。来てくれと言う。進之介の兄は一時近習頭をしていたため、江戸家老の沖田(笑)にもいろいろ世話になっている筈であった。そのことかも知れない……。

 沖田は敵討の一件を、ひどく気に入っている様子だったという。そういえばあの日、お雪がちらりとそんなことを言っていた。どこからそんな情報が来るのだ。誰にも国を明かしていないというのに。

 とにかく、身形を整えて、使いの者についていった。

 沖田は、取っ付きにくそうな武骨な風貌の初老の男だった。仇討ちを労い、母や兄について尋ねた。物故したことを伝えると、淡々とした声音でそうか、と答えたのみ、しかし、腕組みをして黙り込んだ。やがて顔を上げると、少し明るい声音で言った。

「こたびの首尾、御前に奏上した。殊の外喜ばれ、見所のある若者じゃ、帰参を許すと仰せられた。儂としても手元に置きたい。異存はあるまいな?」

 進之介は、このぶっきらぼうな好意に戸惑った。江戸にはいられるかな、と咄嵯に思った。しかしお雪の拒絶の仕方が気に掛かる。ああ、最初に女のことを考えるとは。真面目一本やりの父や兄が知ったら、なんと思うだろう。女々しいと言うだろうか。

「ありがたき幸せ……」

 平伏しながら、何かしっくりしないものも感じていた。ありがたい話ではある。この機会を逃せば、もう巡っては来ないだろう。もし断ろうという時、自分はどうするつもりなのだろうか。それを考えてみたくなった。



 ぽつぽつと、桜が開きはじめていた。一分咲きといったところか。これから満開になろうという期待も背負って、清々しいながらも、すでに人を狂わせる要素を持っていた。目鬘売りが、もう出ている。子供が四、五人、わいわいと騒ぎながらそれを見ている。

「これは、進之介殿。珍しいところでお目にかかります」

 編笠の侍が近付いてきて声をかけた。知り合いはいない筈だ。国元ではまだ部屋住みだったし、江戸では……。

 侍が少し笠を傾けて顔を覗かせ、笑ってみせた。あの字だった! 羽織袴に二本刺し、天晴な若侍の姿だ。あの宇は笠の下から、目で合図をよこした。ただならぬものを感じ、調子を合わせろということだと察した進之介も笑顔になり、

「お久しゅうございますな」と、答えた。名前を呼ぼうとしたが、あの字としか知らないのだった。こんなことになるなら、重三郎にきちんと聞いておくのだった。

 あの字は一歩足を進め、進之介の耳元にささやいた。

「おめえさん、つけられてるぜ」

「なに?」

 振り向こうとしたのを、さらに、目で制止した。

「お急ぎでなければ、どこぞその辺りで」

「よろしゅうござる」

 二人は並んで歩き、近くの茶屋に行った。人通りはそこそこ。混雑しているほどではない。

「今、二軒手前の茶屋に入った浪人者」

 あの字が言った。

 当然、その男に見覚えはなかった。何のために? 覚えといえば、敵の身内の手の者、または、あの江戸家老の手先。そのくらいしか考えつかない。どうしよう、これから。お雪や亭主に迷惑がかかるのは困る。

「人相風体もよくねえし、大方金で頼まれたけちな野郎だろう」

 自分の素性はどうなのだ、と進之介は思う。笠を外さないし、相変わらず、何か、拒むように尖った感じのする男だ。いったい、侍だったのか? もっとも、こうしていれば、どこかの若様のように品よく見える。

「今日のところは、うまく巻いてやりましょう。造作もないことだ」

 こともなげに言う。

「なぜ拙者を助けてくださるのか?」

 あの字はくすっと笑った。きつい目の光が和らぎ、思いがけなくいたずらっこのような顔になった。

「どうしてでしょうかねえ。とんだお世話様」

 もっといろいろ聞きたかったが、控えた。

「ここを立ったら、そこの角で左に曲がってください」

 やがて二人は立ち上がって、左右に分かれた。

 大分くたびれた錆色の着物の浪人も、立ち上がった。あの字とすれ違ったが、特に注意を向けなかった。進之介は、前方を若者らしくきびきびとした足取りで歩いていく。角を曲がった。浪人は、少し間を詰めようと、足を早めた。いや、早めようとした途端に、鼻緒が切れてつんのめった。

 孫らしい幼女を連れた実直そうな老人が、よたよたと通りかかっているところだったが、これを見て寄ってきた。

「おやおや災難でございましたねえ、どれ、すげてあげましょうかいの」

「いらぬわ。爺い、そこを退け!」

 男は苛立たしげに老人を手で追い払い、立ち上がったが、進之介の姿は、すでにどこにもない。何やら足先がひりつくので見ると、血が流れている。けつまづいて擦ったか。違う、切傷だ。鼻緒も千切れたのではない、途中まですぱりと切れている。

 はっとなって振り返ったが、勿論、あの字の姿もとうに見えない。

 男は下駄を往来に叩きつけた。

「あの我鬼…畜生!」



 進之介は、今度は油断なく歩を進めた。幸い、つけてくるらしい者はない。屋敷を出てからつけられたと思われるが、一体誰だろう。

「あら、進之介様、何だかご様子が…いかがなされました?」

 お雪が小首をかしげた。

「いや、何でもござらぬ」

 敢えて笑顔を浮かべてみせたが、娘は進之介の顔を見つめ、それから表情をほぐして微笑んだ。

「お疲れでございましょう? お茶でも入れますから」

 さっき飲んだばかりだと思ったのに、喉はからからだった。思いの外緊張していたらしい。茶がうまかった。

「江戸家老の沖田様に会われたそうで。よいお話しでございました?」

 またしても、耳の早い。

「お使いの方が、そう言っておられましたから」

「帰参を許す、との話でした」

「それはようございましたね」

「ただ、帰り道で何者かにつけられた。浪人らしい。まさかとは思うが……」

「まあ…」

「いや、途中であの字がうまく巻いてくれたゆえ、もう大丈夫でありましょう」

「あの字が? まあ珍しい。普段あまり他人にちょっかいを出さないのに」

 お雪は面白そうに笑ったが、進之介はちっとも愉快ではない。それどころではないのに、豪胆に(と、進之介には思えた)他人のことを笑っているのが、解せない。ひょっとしたら、ここにも火の粉が及ぶかも知れないのだ。つけられたなどと、やすやすと口を滑らさずに、暇を乞うべきだった。進之介は厳しい顔になった。

「お雪さんを巻き込みたくない。ここを出る」

「どちらへ行かれるのです? でも、ここのほうが安全でございますよ」

 お雪は断言した。全く動じた風がない。不思議な娘だ。

「一人でいらっしゃるよりも、ね。それに、進之介様もご存じの、腕の立つ知り合いもおります。何かあればすぐに力になってくれます」

「拙者は、お雪さんを危険な目に合わせたくないのだ」

 自分一人ならどうとでもなる。しかしお雪はけろりとして、またまた可愛らしく小首をかしげた。

「沖田様の手の者ではございますまい。あちらにお出入りを許されている商人を知っておりますが、実にご立派な方だとか。後をつけさせるにも、そのような者を使うかしら」

 女子は不学を以て徳とする、などと言われ、いつも後ろに引き下がって顔を俯けていた国元の女たち、たとえば母などと比べると、お雪ははっきりしている。たまに圧倒されるのを感じる。

「差し出たことを申しました。ごめんなさい」

「いや…しかし、お雪さんは変わったお人だな」

「そうでございますか? ま、とにかく、おじさんにも知らせてあげなくては。進之介様のご帰参が叶うなんて聞いたら、おじさんまた祝い酒だわ」

 お雪の関心事はこちらにあるらしい。我が事のように喜んでくれるのは嬉しいが……。明日にでもあたりを見て、住めそうな所を探そうと、進之介は決心した。

 日が暮れた。亭主とお雪は出してあった縁台を片付けて中に入れた。それからお雪が、戸口にちょこんと盛り塩をしてから、戸を立てた。


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Pierrot Lunaire Index


余談:当時、「もっと早く原稿をくれたら、笠を傾けて笑ってみせるあの字が描けたのにー」と、
うさぎにぼやかれた。そうだよね、イベント直前じゃ無理だよね(^_^;)