部屋に戻ってから、何かと片付けものをしているうちに12時を回った。加藤からの電話が来た。さっきとはうって変わって、暗く沈んだ顔つきをしている。

「相談したいことがあったんだが、木村の前では言えなかった」

「彼がどうかしたのか?ちゃんと帰れた?」

「まあな。あいつは別に心配ないんだ、今のところ。そういえば、おまえが怒ってないかどうか、頻りに気にしてたよ」

「なんでさ」

「突然一人でセンチメンタルになったって」

 山本は笑いだした。

「変なことに気を使うなって言ってやれよ」

「行きに、突然いっちゃってる奴らがいただろう?なんでも、連中を見たときのおまえの目がものすごくきつかったそうだ。だから、感情的で一人よがりなのって嫌いなんじゃないかって」

「気のせいだよ」

「そう言ったけどさ」

 少し沈黙があった。

「相談事って何」

 加藤は少し口を開き、ためらったようだが、画面の向こうから山本を見据えて言った。

「長沢弘之って覚えてる?一度、会わせたことがあるんだが」

「長沢…」

「けっこう過激に音楽論を交わしてたぞ」

「思い出した。口調がわりときつい子」

「あいつが今、止まっちゃってるんだよ。考えすぎなんだと思う。それで、体が動かない。どんどん追い込まれちゃって、実のところ、俺もなんて言ってやったらいいか分からなくなってきている」

「考えすぎる?違うだろ、おまえが完壁を求めたんじゃないのか?」

 加藤は明らかにひるんだ。気弱な光が目に浮かんだ。本当に参っているらしい。

「長沢はきっと優等生だろう、今まで挫折らしい挫折なんか、したことなかっただろう、でも、たぶんあまり『自分』には自信がないんだ。でなきゃあんな食ってかかるような喋り方はしない。そこに、ああしてみろこうしてみろって言われてごらんなさいよ。全部いっぺんにやろうとするだろうよ」

「それって誰かさんに似てませんか。今の口調といい」

 画面の向こうの顔は悔しそうだ。

「そうかもしれない」 でも、俺が思うには、加藤のほうにより似ている。

「どうしたらいいんだろう」

 ずるい。

 天才といわれ、ヤマトの飛行科チーフにも抜擢され、人をまとめる力もある。いつもは自信に溢れた、悩み事なんか一つもなさそうな快活な顔をしているくせに、深夜にこんな電話をしてくる。

 だいたい、木村の前で言えないようなことなら連れてこなければいい。

「しばらく放っておけば。これだけは言っておく。考えすぎは加藤さんです。それじゃ」

 一方的に電話を切り、それまでの作業の続きをするが、削がれたようで、何だか気も失せた。



 なんでも自分一人でしようと思うな。最初にそう言ったのは、土方校長だった。鋭い眼の奥に微かに笑みにじませ、それだけ言って、転任していった。どういう意味ですか、先生。一人でかぶろうとなんかしていません。しかし、気圧されたように、言葉は出なかった。俺はそんな人間じゃない。そんなことにヒロイズムを感じるような人間じゃない。知っています、先生。

 久しぶりに、学生時代の夢を見た。たまに会って、一緒に飲みにいく奴もいたし、もう既にこの世にいない奴もいた。山本が、ふん、という顔をした。生意気で、倣慢で不思議な奴。

 自分で考えれば。あれ、俺は何か相談をもちかけたのかな。今度のように。ただ、俺はこう考えてる。俺がするのがいちばん早い。挑むような眼で俺を見た。夢じゃない、記憶だ。たぶん。



 加藤は電話をかけた。やはり、何が得策かを相談したかったのだ。山本は、何事か事務的な処理の真最中だった。例の件だけど…言いかけると、「Нет(だめ)」ただ一言だけ、そのまま電話を切られた。きつい発音の母音と、一瞬向けられた、青光りするような瞳。取りつく島がない。НетとNeinはどうしてこう頑ななのだろう。



 三週間ほど経ったある日。山本が電話に出ている時、目の前にするりとメモが差し出された。四角いくせに妙に丸っこい、マヤ文字を連想させる字だ。岡崎の字。見上げると、岡崎が真面目くさって2、3度瞬きした。それから軽く一礼し、立ち去った。

『加藤さんからお電話がありました。今日、すぐに来てくれないか、相談したいことがあるから、とのことです』

 山本は岡崎を呼び出す。

「さっきの電話、どんな感じだった」

「は?」

「ごめん、聞き方が悪かった。深刻そうだった?」

「いいえ、ただ、ごく機嫌のよさそうな時に比べれば、若干沈んでらっしゃったかも知れません」

 この岡崎という少年は、他の連中よりも、山本に対してフランクだったし、なぜだか分からないが、なついている感じだった。ちょっと子犬みたいだと山本は思った。澄ましてついてきて、振り返ると足を止め、歩き始めるとまたついてくる。そんなタイプだ。

「ありがとう。もういい」

 岡崎がかちっと敬礼する。調子狂うなあ、2年先に生まれただけでこれっていうのは。それにしても、加藤の奴、まだあいつのことで悩んでいるのだろうか、誰だっけ、そう、長沢。ひとの都合も聞かないで。来てくれなんて、いったい何だ。

 自分の仕事が済むとすぐに、山本は出かけた。



 加藤は只今打合せ中です。まもなく終わると思いますので。かまいません、待たせてもらいます。 打合せというよりは、今日のお説教といったところか。すぐそこでやっているから、様子は丸聞えだ。一人の少年を前に、喋っているのははとんど加藤だ。よく通る声が、まるでなじっているように聞える。少年は直立不動で、時折、はい、はい、と鋭く答えている。

「それじゃあ明日な、お疲れさん」

「はい、失礼します」

 踵を返した少年と目が合った。長沢。すぐに目を伏せ、一礼すると、擦り抜けるように出ていった。

「お仕事中でしたか」

「遅かったな。…というより、こっちの予定のほうが早かったからな、間に合わなかった」

 加藤は苦笑いした。大きく息をつき、少しの間、気が抜けたように視線を落としたまま黙っていたが、やがて唇を噛み締め、きっと山本を見た。

「飯でも食いながら話そう。もうちょっと待っててくれる」

「おごり?」

「嫌な奴。いいよ、たまには。呼んだのは俺だし」

 加藤の支度が済むまで、エントランスで待つ。色々な連中が通る。加藤の部下たちも通る。中には山本を見知っている者がいて、たまに挨拶をされた。しかし、長沢は通らなかった。不意に肩を叩かれた。

「どこに行く?」

「別にどこでも」

「じゃあ適当でいいな」

 歩きながら、加藤はほとんど何も言わない。思い詰めたような目を据えて、両手をポケットに入れたまま、大股でひたすら歩く。余裕がなくなっている、山本は咄嵯にそう思った。

 地下の動く歩道を約10分。街に出る。地球が十五夜に近く、やけに明るい。手近なイタリア料理店に入った。

「何だか、あまりヘビイなの、食う気しなくって」

 ワインを選びながら、加藤は気の弱いことを言った。

「何だよ、それ。死期が近いんじゃないの。とにかく早めに話を伺いましょうか。長沢だろ?」

「そう」

 メニューごしにちらりと山本を見て、すぐに目線を下ろした。山本はため息をつく。

「俺が今、何を考えているか分かる」

「てめえで解決しろよ、ばか、とか?」

「卑屈になるなよ。マゾなんじゃないの?」

「おまえねえ。いろんな事言ってくれるじゃないの。そこまで言われる筋合ないよ。何だよ、一体」

 加藤はメニューをばさりとテーブルの上に投げ出し、少し身を乗り出した。

「やーい、バカ。教えてやらない。でも折角話を振ってもらったんだから、言わせてもらう。どうして俺に、こんな相談をもちかけるわけ。俺は、長沢のことをよく知らない、だいたい、こっちの人間関係なんてのも分からない。俺は、あけの海の所属で、何だか分からないけどチーフなんかさせられている、嫌だけど。こんなことを相談されても困る。技術的な事で、加藤が分からないようなことは、俺にも分からない。悪いけど、自分のことで精一杯。俺はおまえの秘書でも何でもないんだし、別の基地のことについてなんか、考えたくない」

 加藤の表情が変わっていく。変わるというよりは、抜け落ちていくようだ。最後に水のような悲しみが残った。加藤は黙っている。

 山本はかっとなった。思わず立ち上がりかけた時に、ボーイがやってきた。仕方なく座り直し、ボーイを見上げると、同年輩と思われるその男が半歩後ずさりした。慌ててメニューに目を落とす。加藤は椅子に斜めに座り、大きく足を組んで、頬杖で頭を支えている。さっきと同じ顔つき。山本を見ている。いや、見ているかどうかは分からない。

「加藤」

 メニューを強引に割込むように指し示すと、「ああ」と言ってボーイに視線を移した。さっき擦れ違った長沢と同じ顔をしている。どうするつもりだ、加藤三郎。

「置いていかれるかと思った」

 うすく、歪んだ笑みを浮かべた。

「そんな気はなかったけど、そうすればよかった」

「何だかもう…俺が俺じゃないみたいだ。ごめん」

 山本は再びため息をついた。

「加藤、ずるいよ」

「ずるい?」

 そんな、傷つけられたような顔をして。

 どうしろっていうんだ。何を期待しているんだ。そんなこと知るもんか。俺は関係ないんだから。何か言えよ、畜生。自信家のくせに人を正面から見ない。視線が滞っている。耐えられない。

 加藤はしばらく、待っていた。しかし山本が黙りこくったまま、やがて唇を噛んだのを見て、すうっと視線を落とした。山本は、その顔をきっと睨みつける。

 やっぱり長沢と同じだ。引きずり下ろされて、散々に踏みつけられたような顔をしている。情けない。どうしちゃったんだおまえは。どうしてそうなっちゃったんだよ。そんなに困っているわけ?なんで?ひどく不毛に思えた。

 足を組み直し、腕を組んだ。顎を持ち上げると、彼は言った。

「いいよ、秘書でも」

 加藤が顔を上げる。

「見てられないよ。何かもう、ぼろぼろ。弱ってる時にこれ以上言うのはフェアじゃないから、もう止めておくけど。俺の言い方、そんなにきつかった?」

「…相当きいたよ。もう誰にも頼れないなあって思った」

「頼る?俺に?」

「俺、他に友達いないもん。基地には上司と部下しかいない。それに、学校でもどこでも、今までずうっと、一方的に頼られるばかりだった。お袋も…今回のことでちょっと参って、電話したんだ。顔が見たかっただけなんだけどね。月はどう、元気ならそれでいい、おまえのことは何も心配していない、そう言うんだ。元気だよって答えるしかない」

 加藤はテーブルに肘を突き、組み合わせた指に額をもたせかけた。

「何だか疲れた。山本になら、言ってもいいかもしれない、って思ったんだ」

「……」

「ずるい、よな。親にまでいい格好して、おまえにこういう事言うの、筋違いだとは思うんだけど」

 それでも親にも言えないのだから仕方がない。そういえば加藤の家族は、仲がいいにもかかわらず、不思議にお互い遠慮がちだ。なぜだろう。まあ、仕方がない。山本は、この日何度目かのため息をついた。

「…たいへん、正直でよろしい。もう、一度いいって言ったんだから、たぶん死ぬまで協力してあげます。いや、他にそういう人が出来るか、加藤が変わるまで、かもしれないけど」

 結婚したら。言いかけてやめた。

「長沢の話を聞きにきて、ずいぶん遠回りしちゃったな。じゃあ、ボーイの人が気にしてるから、まず、これを片付けよう」

 いかがいたしましょう、とお伺いをたてにきたらしいボーイが、そのまま引き返していった。前菜もワインも、まだ全く手を付けられていない。


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