言っていることはごく単純なのだ。もう何度も頭のなかで繰り返し、試みてきた。悔しくて悔しくて、本当に涙が出そうだ。何でもいい、大声で何か喚きちらしたい、ぶち壊したい、傷つけたい。しかしそんなことは、意識してするものでは到底ないのだ。考えたとたんに惨めになる。何もできない。何がいけないんだろう。

 仕事にいくのは嫌だ。思い通りに動かない、動けない。明日もそうだったら……。仲間が困ったような、やさしい笑顔を浮かべる。メシ食いに行こうぜ!明るい声をかけるために、慰めるために真っ先に俺のところにやってくるのだ。長沢って、いろいろ気にしすぎなんだと思うよ。もっと適当でいいじゃん。そんな気を遣わせる自分が情けない。みんなが俺を見ている。惨めだ。だれもが自分よりも優れて見える。

 今までの人生が崩れていく。……俺は変わりたかった。自分が嫌いだった。新しい「自分」を作り、それに合わせることにした。努力をしたことすら忘れてなりきっていた筈なのに、ふと気が付くと、昔のままの、小心で意気地なしの俺がいる。結局、人間は変わることができないんだろうか。あがいても、あがいても、俺は上がれない。まだ足りないんだろうか、まだ甘えているんだろうか。人はもっと努力しているんだろうか。

 いつのまにか出口のない堂々巡りだ。自分をかわいそうだと思ったらおしまいなのだ。…音楽を聴こう。叫ぶかわりに、大音響で、不協和音の多い、複合拍子の音楽を。黒ずんだ血液に酸素を吹き込み、赤くたぎらせるような音楽を聴きたい。音の波がぶつかり、干渉を起こし、響きが肉体を粉々にする。俺は、貝殻や骨の欠けらでできた砂のように、ざらざらとした、乾いた薄茶色の山になる。次の波が来ると、残らず吹き飛ばされて、あちらこちらの隙間に潜りこむ。粉のように細かくなって、月の砂の間にも紛れる。灰色のパウダーの中に、まだ所々角の突き出た、薄い色の欠けらは、俺だ。かつてあった脳髄で音楽を聴き続けている気になって、眠っている。眠っている……。



「おまえねえ、頭で考えすぎるの!」

 加藤さんが呆れている。考えすぎるって言われても。分からない。どうしたらいいのか。今は言われたようにやるしかないのだ。加藤さんが近付いてきて、俺の頭をがしがしと撫でまわす。

「どーーしてなんだろうね、おまえは。何がおまえの中で引っ掛かってるんだろうね」

「分かりません。無心にやっているつもりなのですが……」

 山本さんが後ろで見ている。俺はこの人の眼が怖い。心の奥底まで、何もかもが見透かれそうな気がする。俺が醜い小心者だということを、この人はとっくに気付いている。今、何を考えているんだろう。怒っているのか。能無しと思っているかもしれない。もし知っているなら教えてください、俺は――体なんでしょうか。



「山本さん、どう思う」

「何が」

「長沢少年、最近、俺にくって掛からなくなった」

「それに、表情が乏しくなった」

「はい、はい、って一生懸命答えるんだよ。でもそれだけ」

「まるっきり自信喪失してるね」

「どうだろう、今度休前日に飲みに連れていって、つぶしてしまうか。不満がたまっていたら、何か言いだすかも。理性取っ払っちゃって」

「言いませんね、きっと」

「……。どうしてそう、断定的な言い方するわけ?前、あいつがそうだったよ、何トカじゃないですか。って言うの。まあ…今よりそっちのほうがよかったけど」

「加藤さん最近ボヤキが多いよ」



 頭のなかで、気に入りの交響曲が鳴っている。本当に、大好きな曲だ。歓喜の行進曲。テンポがいい。精神を煽っていく。身体がしゃんとしてくる。ところが突然、暗転した。歩け、歩け、歩け。勝利の喜びを歌い、進め。鞭打たれ、強制された歓喜。足枷を引きずり、死人のような群れが歩いていく。讃えよ、歌え。

「ああ!!」

 思わず、俺は呻いた。信じていたものがすべて崩れ去った気がした。騙されていたんじゃない、最初からそういう曲だったのだ。もう、どこにも花園はない。音が消えた。それでも俺は歩かなければならない。歩け。歩け。



 居心地が悪い。もう、そうそうこちらへは来られない。山本は思った。上官には何を言われようが平気だが、長沢の同僚たちが気になる。自分は所詮「部外者」にすぎないのだ。そろそろ話は広がってきている。あけの海の岡崎も知っていたではないか。長沢が突出するようなことになっては困る。大体、加藤への協力とは言うものの、一体俺は何をやっているんだろう。いたずらに、長沢にプレッシャーを与えているだけではないのか。甘かった。加藤が長沢に説教しているが、山本は聞いていない。ぎっちりと何かが詰まったように、頭が重い。

 さっき、加藤あてに電話があったのだ。長沢の母親だった。おとなしそうな、小さな女性で、気後れしたような喋り方をした。呼んできましょうか、と言うと、慌てて首を振った。「いえ、結構でございます。こんなお電話も何かと存じましたけれど……。最近、どうも息子の様子が変でございまして、ちゃんとお勤めしているのか、不安になりましたものですから」

 この期に及んでも、まだ電話をしてよかったのかどうか、悩んでいるような口調だった。山本は、どう返事をしたらよいのか、困惑したが、彼女はそれを期待していなかった。やはりおずおずと、続きを話しだした。

「何と申しますか、親が言うのも何でございますけれど、かなりきつい性格の子でございまして、私が何か言いますと、お母さん、それは違うよ、これこれこうじゃないか、などと、きつい言い方をするのでございます。もう、白でなければ黒という感じでございまして……」

 山本は、この女性の語り口に苦痛を感じた。しかし女性は伏し目がちに、叙事詩でも謡うような調子で、切れ目なく語り続ける。

「ところが最近は、何を言っても怒らなくなりまして、何だかもう、木偶のようなんでございます。どうしちゃったんだい、おまえ、身体の具合でも悪いのか、と言いますと、気が抜けたような顔で、大丈夫、大丈夫、って笑うのです。もう、惚けたよう、とでも申しますか、とにかく何を言っても、大丈夫、大丈夫、そう申しますんです。弘之は、ちゃんと働いておりますのでしょうか。何かしくじっているとか、いじめられているとか、あるんでしたら、いっそもうやめさせようかとも考えております。そう言いますと、もう少し、と答えるんでございます。もう、親馬鹿のようでお恥ずかしゅうございますけれど、あなた様のほうからも、ちょっとお話していただけるとありがたいんですけれども」

 相談してみましょう、と、お茶を濁して電話を切ったが、どっと疲れた気がして、しばらく立ち上がれなかった。長沢はすでに長沢じゃない。脱け殻だ。そんなことは、彼の母親に言えない。

 加藤にもまだ話していない。加藤はずっと、長沢と一緒にいる。

「おまえ、自分のこと、信じてないだろ」

 加藤の声はよく通る。加藤がすぐそばで、自分に向かっていったかのように聞こえて、一瞬どきりとした。

「自分で訓練したことも信じてないんだ。それじゃあどうしようもないよ」

 加藤がイラついている、頭に血が上っている。今日はもうやめさせよう。

 長沢が低い声で、努力が足りないのだろう、もう少し、がむしゃらに頑張る、というようなことを言った。所々、少し離れたところにいる山本には聞こえなかった。加藤はさらに声を荒げた。

「言い訳するなよ?そうやって理由くっつけて、逃げてるだけじゃないか」

 長沢が顔を上げた。悲しそうな、絶望的な顔をした。

「加藤!」

 どうかしてる、加藤。



 自分が何を言っているのか、分からない。この間までは、自分の恥をさらすだけのような気がして、自分が悔しくて、腹立たしくて、身体がパチンと弾けて割れてしまえばいいと思った。今は違う、今は……アメフラシか、蛞蝓にでもなったような気持ちだ。いずれ溶けて消えてしまうんだ俺は。何を言われても悔しくない。思いっきり罵ってくれていい、いや、そうしてもらいたいと思う。

 加藤さんは悲しそうだ。山本さんが来た。一瞬視線を落とし、それから俺の顔を見た。俺の腕をつかんだ。責めるような、違う、詰問するような目。



 長沢の手には、三日月型の傷が夥しくついていた。



 今日の加藤は元気がない(それに、やけに感情的だった)。むっつりと黙り込んで、暗い顔をしている。おかげで山本は、長沢の母親の話をしそびれている。しかし、潮時だと思った。

「加藤、今日のことだけど、あんな言い方したら、立つ瀬がないよ」

 加藤の顔がこわばった。頬から顎にかけての筋肉が引きつり、奥歯を噛み締めたのが分かった。

「もう……あいつ、解放してやったら」

 加藤は、憑かれたような、一種気違いじみた目になって、山本を見据えた。食いしばった歯の間から言葉を一つ一つ押し出すように、彼は言った。

「おまえも、俺を、責めるのか」 

 山本は顔を背けた。眉根を寄せて、ひとには聞こえぬ声で呟いた。

「…ばかみたい」

  それから加藤に向き直り、睨み返して今度ははっきりと言った。

「俺、帰るから」

 加藤がうなだれて立ちすくんでいるのを意識しつつ、振り返らずに歩いた。大丈夫、加藤は死なない、突然、そう思った。


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