資料整理に熱中して、気が付いたら同僚は誰もいなかった。声をかけられたような気もするが、よく覚えていない。岡崎はにわかに空腹を感じ、急いで帰り支度を始めた。その時山本が入ってきて、あれ、まだいたのか、と言った。これから外で飯を食うつもりだけど、岡崎、一緒に行かない?たまにはご馳走しよう。あ、行きます行きます。岡崎は、間髪を入れずに答えた。

 街へ向かう車の中で、岡崎は手紙を出し忘れていたことを思い出した。家族に近況を知らせるだけの、他愛無い手紙だ。へえ、手紙好きなんだ。書くのは面倒臭いですよ。でも、まあ、電話よりはいいかな。あ、受け取るのは好きです。そりゃわがままだよ。山本さんはいかがですか?この間、女性から手紙が届いていましたけれど。笑って誤魔化された。

 ともあれ、街に着いてから少し待ってもらい、急いで投函しにいく。色彩が乱れる街の入り口。近くの店のドアが開くたびに、流行の音楽が洩れ流れてくる。前の広場では派手な衣服の少年たちが、しきりにスケボーを転がしていた。彼らの近くに置いてるスピーカーからも、音楽があふれている。岡崎はあたりを見回した。ここで待っていると言われたのだが……。

 山本は、階段に腰を下ろし、百年も前からそこにいるような顔をして、煙草を吸っていた。黒いジーンズの上下で、赤い靴下なんかはいて(少しだけ見えるのだ)、何というか、よく学生街にたむろっているのと全然変わらない。岡崎は、意外なような、ごく当然の発見をしたような、面白い気分になった。

 学校を出たてで最初に紹介を受けたとき、彼らはみな、上司となる男が思いの外若かったので、少なからず驚いた。ヤマトに乗っていたので、なんとなく、もっとエリート軍人くさいイメージを抱いていたのだ。ただし、その時に山本がごく冷ややかな顔で、腕組みをして立っていたので、揃ってビビってしまった。若いということが、逆に作用した。下手なことを言うと、怒られるかもしれない。軽蔑されてしまうかも。やはりヤマトの河は深かった。

 ただ、岡崎は、こわいながらも山本に親近感を抱いていた。実に他愛もないことだ。格納庫の掃除をしているとき、突然子供時代の話になった。彼らが小学校に上がるか上がらないか、という頃、よく流行ったテレビ番組があったのだ。まだ、ガミラスの侵攻もなく、平和ないい時代だった。人形と若い女性が司会を務めるバラエティーだったと思う。若い女性といっても、当時一七、八ぐらいだったろうか、いつもふわふわとしたミニスカートをはいて、明るく、顎のあたりに浮かぶ笑窪のチャーミングな人で、岡崎は実は、その女性がとっっても好きだった。その話題が出たので、もう天にも昇る心地でいたが、不覚にも、彼女の名前が思い出せない。皆もそうで、出てくるのは、彼女がしばらく女優をしていて、数年後に行方不明になり、おそらくは死亡した、といった話ばかりだった。

 ここで山本が振り返った。呆れたような、やっぱり冷ややかな眼差しだったので、てっきり、私語が多いと叱られると思ったら、ぼそりと女性の名前だけ言って、それっきり会話には加わらない。岡崎は感動した。もう、どこへでもついていきますという気持ちになった。山本が世代としては一緒であることと、結構お節介であることに気付いたのは、少しあとだった。

「山本さん」

 声をかけると、煙草を揉み消し、立ち上がって、ごく当然のように「行こうか」と言い、勝手にどんどん歩き始めた。大柄じゃないのに、やけに歩くのが早い。広いところならいざ知らず、こちらは、人の間を縫ってついていくのが一苦労だ。左肩を少し上げ、ポケットに手を突っ込んだままで、何となく投げ遣りな…いや、捨て鉢な感じ。突然左に直角に曲がり、一軒の店に入った。ドイツ風ビヤレストラン。ちょっと意表を突かれた。

 適当に注文を済ましたのち、山本はまるっきり無反応になってしまった。頬杖をついて、何か考えているらしい。放心しているようにも見える。カチッ、カチッ、と、はぼ規則正しく金属性の音がするので、何かと思っていたら、山本が右手でライターの蓋をいじっていたのだった。

 この人煙草吸うのか。今まで見たことがなかったけれど。しかし一体、何を考えているんだろう。山本が黙っているので、岡崎も口を開きづらい。そのうちにビールが来た。

「岡崎、月は好き?」

「は?」

「生活してみて、どう思う」

 ちりっと音がして、煙草に火が点けられた。

「昼夜ないのが少し、つらいです。昼夜に限らず、変化がほとんどないですよね」

 山本が煙の向こうで微笑した。

「天候、気候もないですからね。地球を見ると、つい、向こうでは刻一刻と、何かが動いてるんだろうなと思ってしまいます」

「月は居心地が悪い?」

「そんなことはありません。非常に快適です。でも、造られたから快適なんですよね。人間は無理に住んでいるわけで、誰かの手が必ず入っている。その上で生活しているんだなあ、と思うと、何だかちょっと」

「その作為的な快適さが、逆に俺は気に入っている。地球ももう、自然の地球じゃなくなってるだろ?今のは、できるだけ昔のものに似せて造り上げたレプリカって気がしてしょうがない」

「お帰りにならないのは、そのためですか」

「あ、チェックされてる」

「すみません」

「加藤が面白いことを言った」

 自分に関わる話になると、山本は、いつも微妙にかわしてしまう。

「あの男は地球を見たがらない。どうしてかって言うと、青いから。一度海がなくなったから、その間のゴミとか、汚れとかが溶け込んで、最初、すっごく水が汚かったじゃない。でも、上から見たら、そんな水でも青く見えるって。『青い地球』なわけ。それを見たとたんに、何かこう、騙されてたって言うか、そう信じ込んでいた自分が馬鹿に思えたって言うか、まともに見たくなくなったって」

 岡崎は困惑した。細い絹糸で、少しずつきりきりと縛り上げられているような感じだ。この人の視線の先はどこだろう。僕の身体を通り抜けている。何となく、病んでいるように思えた。山本と加藤が。突然悲しくなった。腹が減っているからかな。

「細かいなあ、加藤は。あんまりそうは見えないでしょ」

「……そうですね」

 店内はかなりうるさい。不意に、音楽が流れだした。小編成の、陽気に明るい生演奏だった。


7へ

Pierrot Lunaire indexへ戻る