やっと、電話が来た。今まで何度か電話したけど、いつもいない。手紙の返事なんか、当然来ない。ごめん、そのうちまた電話する。また、って何。こんなの、電話のうちに入らないわよ。そう言いたかったけれど、やめた。あたしはただ笑って、そう、とだけ言った。少しやせたわね。すると今度は向こうが、そう?と言った。それから双方にっこりと笑って、またね。

 あたしたち馬鹿じゃないかしら。 いても立ってもいられない時、腹が立った時、人間って本当にうろうろ歩き回るものだわ。情け知らず、鈍感、冷血、横着、あんな甲斐性のない男、見たことがない。自分のことにしか興味がないんだ。ああ、あたしってこんなにいろいろな悪口が言える。

 会社でチーフに、最近過激になったね、と言われてしまった。彼氏とうまくいってないの?ほらあの、ヤマトに乗っていた彼。ハンサムね。チーフったら嫌な笑い方をする。ヤマトだろうが何だろうがいいじゃないの。ことあるごとに、みんなそう言うわ。腹が立ったけれど、あたしはずるく、そうですか?って笑って誤魔化した。何に対して『そう』なのか、自分でも分からない。

 月がでている。カーテンを閉めてやる。月なんか大嫌い!



 ほんの気紛れだったかもしれない。長沢はどうしているかな、と思った。退職して、地球に帰ったらしい。しばらく休養すればいい。山本は、少しほっとしている。長沢と加藤は相性が悪かったのだ。細かいもの同志、一緒にしておきたくない。お互いにつぶれていくばかりだ。加藤はまだふっきれていない。十日ほど経ったと思うが、毎日のように、飲みにいこうよーどっか遊びにいこうよー、と言ってくるので、うるさくて仕方がない。飲みたきゃ勝手に飲め、アル中!そう怒鳴ってやって、人の気配に振り返ると、後ろで部下が怯えた眼で立っていた。

 知り合いに頼んで、演奏会のチケットを二枚取ってもらう。長沢が音楽好きだから、誘おうと思ったのだ。チャイコフスキー・チクルスだけど、いい?まあ、女の子は結構チャイコフスキー・ファン多いからね。親父の友人の楽団関係者は、にやりと笑った。生返事をしておいた。

 マッダレーナのことを考える。この間、ようやく電話したが、彼女は激しく怒っていた。無理もない、ずっとすっぽかしていたのだから。ごめん、と言ったら、おっとりと、そう、と答えたが、にっこり笑った眼が怒っていた。この次は殴るわよ、そう言っているような眼だ。しかし、ただおとなしいだけの女でなくて、何だか安心する。ごめん、今度は絶対誘うから。心の中で言い訳をしながら、長沢の実家に電話をかけた。

 あのお袋さんが最初に出た。山本の顔を覚えていて、例のごとく、長々しい挨拶をされた。少々お待ちくださいませ、呼んでまいります。

 画面が長沢に替わった。げっそりとやつれて面変わりして見え、驚く。生気のない目。表情もあまり変わらない。

「元気?」

「はい」

 ぎくしゃくとした、ぜんまい仕掛けめいた笑みが浮かんだ。

「コンサートに行かないか?あんまり外に出ていないんだろ。気分転換しようよ」

 あけすけすぎた。しかし長沢の顔を見てると、そう言いたくなるんだから。

「チャイコフスキー」

 長沢は少し考えた。それから、行きます、と答えた。



 こんな理由で帰るとは思わなかった。もっとも休日ではないから、終わったらすぐに、月に帰らなくてはならない。月に帰る?かぐや姫じゃあるまいし。地球に帰る、月に帰る。そんなことはどうでもいい。

 長沢はすでに着席していて、山本が行くと、軽く一礼した。

「たいへん貴重なものを、ありがとうございます。最近は、なかなかチケットが手に入らないそうですのに」

「知り合いがいるから」

 前プログラムはただ甘いだけの曲(と、山本には思えた)で、少し退屈した。2曲目、長沢の目が生き生きしてきた。

 「ゴージャスな音ですねえ」

 休憩になるとすぐに、長沢が話しかけてくる。だいぶ、最初の頃の長沢に近付いてきた。顔に赤みが射している。飲み干したグラスワインの色が移ったような顔で、長沢は言う。コンサートは久しぶりです。この楽団は初めてです。音の層が厚くて凄い。それでいて、一つ一つがシャープで。あのトランペットには驚きました。平べったくて、硬くて、面白い音ですね、スピード感があって、くせになりそうです。

 ここの楽団はあれが特徴だから。刃物みたいな音だろ。聴衆が血だらけになってる。

 前にいた中年婦人が振り返り、二人をぐっと睨みつけた。比喩が不適切で、怒っているらしい。婦人が立ち去ると、長沢は声をたてて笑った。

 メインは父響曲だった。沈鬱な木管楽器。きしむ低弦。少し暗かったかな。山本は気になり、ちらりと隣を窺ってみる。長沢は熱心に聞き入っていた。しかし第2楽章で彼は、俯き、身体を小刻みにふるわせはじめた。腿に、指が食い込んでいた。布地は筋ばった手の下で渦を巻いている。動いていいなら、きっと身体を捩ったろう。 第3、第4楽章になると、長沢は落ち着き、力をゆるめた。しかし山本のほうは、長沢が気になって、そのあたりはほとんど聴いていない。

 アンコールが終わっても、なかなか長沢は立ち上がらない。俯いたままでいるのを、取り敢えず立たせて、ロビーに移った。長沢が泣きだした。さっきと同じように、身体をふるわせ、強ばらせ、声を殺して泣きだした。違うのは、容赦なく掴んでいるのが腿ではなくて、頭髪だったことだ。仕方がなく山本は隣に座り、長沢が落ち着くのを待った。幸い、声を掛けかねていた係員が意を決して歩み寄ってきた頃には、かなり穏やかになったので、背中を叩いて促し、外に出た。

「申し訳ありませんでした。でも、おかげさまですっきりしました」

 長沢は笑ったが、まだその顔は、泣いているように見えた。

「済みません。今日はありがとうございました。帰ります」

「ちゃんと…帰れる?」

「もう大丈夫ですよ。では、さようなら」

 後ろ姿が見えなくなるまで、何となく心配で、しばらくその場を動けない。



 翌々日。突然呼び出しを受けた。何だろう。尋ねてみると、渋面でじろりと見、小声になった。長沢弘之が自殺した。君は、長沢に、最後から2番目に会った人間だ。

 耳が信じられなかった。

 え?

 長沢が自殺した。何度も言わせるな!

 嘘でしょう?

 嘘じゃない!君あての遺書があったそうだ。

ああ!



 加藤が大きく眼を見張って山本を見た。すがるような、責めるような眼だ。山本は受け止めきれずに眼を反らした。

 長沢はあれから一度家に帰り、しばらくしてからまた出ていったそうだ。少し元気になったように見えたので、彼の母親も、こんなことになるとは思わなかったという。そして、飛び降りた。なぜ?

 「遺書」を見せられた。プログラムの裏表紙を引き破ったものだ。鉛筆で、震えて読みにくいながら、丁寧に書かれていた。



 山本さん、申し訳ありません。

 演奏会に連れていってくださって、ありがとうございました。あの第2楽章を聴いたとき、僕の下にも人がいることが分かりました。坂を落ちかかっていた僕を、下から支えてくれるのです。いいから、いいからお上がんなさい、私はいいから。そう言うのです。そして、その人は、自分はずるずると地獄へ落ちていってしまいました。チャイコフスキーその人かもしれないと思います。もう少し生きていてもいいのかなと思いましたが、やっぱり駄目です。これっきりにします。

 さようなら、どうぞお元気で。



 つらい。どうしたらいいのか分からない。



 会社からの帰り道。小さな声で歌を歌っていた。ふと見ると、ビルの谷間から、月が昇るところだった。この道は、月に向かっているんだ。それにしても赤い。血のように赤い。マッダレーナは、その月を睨みながら、足を早めた。少し月が近付いたような気がした。さらに強く、積極的に歩く。駄目、今度は遠退いていく。遠くなる、遠くなる、やがて彼女は諦めた。足が痛い。歩調をゆるめ、曲がり角までをぶらぶらと歩いた。月が少しずつ白くなる。

 家に帰りつくと、彼女は堪えきれずに、電話に向かった。

 月の光で、影も、虹もつくれるのよ。

 今度の週末、私そちらに行きます。震える声で、それだけをメッセージに残した。


                                                        


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